No.5 DL

日々の好奇心の欠片を不定期に放出する

必要なことだった

 ブログを再開した。表現の豊かさが欲しかった。自分の感性に形を与えたいと思った。日記をつけてみたこともあったが、文化的な営みとは程遠い、1日を箇条書きにするだけの単なる記録に過ぎなかった。正の字で物を数えるような。

 僕には自分の世界に没頭してエゴを煮詰めた言葉を出力する場所が必要だと思った。自己完結はできないので誰かに見て欲しい。エゴなので。

 ものを書くという行為は、自覚していない自分という彫像を石の中から掘り出すようなものだと思っている。その精度はまちまちで、徹底的に形を追求する人もいれば、暫定的な形を真だと捉えて満足できる人もいる。

 とはいえ、どちらかというと自分は感性が乏しい人間だろうと思う。何につけても感想が書けない。情報を吸収して、吐き出すだけ。他人の気持ちを想像して発言できるような思慮深さも慎重さもない。衝動的に独善的で排他的な態度をとってしまうことが多い。調子の良い時ほどその傾向は強いように思う。調子の悪い時でさえそのようなことをしてしまう。感性が乏しいというより磨くような体験をしてこなかったのかもしれない。僕から見て感性が豊かに見える人たちが意識的にそう成ったのかどうかはわからないが。

 

 ブログを書くのは3年ぶりらしい。便宜的に過去記事に目を通してみた。肩ひじを張った窮屈な文章に見える。3年経ったからだろうか。客観視できるほど過去の自分との心的・時間的距離が空いたからだろうか。

 過去にブログのようなもの、を書いていたことがある。中学2年の時だ。中1の冬におよそ5年間続けていた野球をやめた。これを説明するには野球を始めた理由と野球に対する愛について話しておく必要があると思う。久しぶりの記事としてちょうどよい題材かはわからないが、感覚をつかむためにも話をさせて欲しい。

 

 少年野球。元々自分の意志で始めたわけではなかった。ある日突然幼馴染が入部した。

 今の家は小学校に入る1年前に越してきた場所だった(物心的実家)。越してくる前は集合住宅に住んでいたらしい。物心がついていたかどうかおぼろげ。当時の思い出といえばいつもと違う部屋で寝た日の夜お化けの出てくる夢を見て泣いたこと、三輪車で段差を乗り越えた時の物理的な衝撃に恐怖したこと、1階に住んでいた友達が玄関ではなく窓から中庭に出てこられることが羨ましかったこと、くらいだろうか。案外覚えてる?

 同級生の中ではそれなりに体格が良かったらしく、保育園だか幼稚園だかでは結構輪の中心にいることが多かったらしい。5,6歳の頃に僕と妹が立て続けに入院する時期があって、通院の都合で今の実家に越してくることになった。転園初日に色水に粘土を入れて重心を不安定にさせたヨーヨーのようなものを持って、見知らぬ顔が自分を取り囲んでいたのを覚えている。

こんなの

 その時初めて「生きていく上では快適な空間を抜け出さなければならないことがある」と知った。そして、自分が人と仲良くなることに時間がかかること、築いた人間関係も失われることがあることを知った。

 そんなこんなで引っ越してからせっかくできた友達(との時間?)を失いたくなくてスポーツクラブに入った。後に入部する中学野球部に比べればはるかに良い環境でプレイできたが、あまり乗り気ではなかったので小4くらいから毎日「やめたい」と親に零す日々を送っていた。当然プロ野球にも興味がなく、父が居間で垂れ流していた(居間が僕の勉強部屋だった)メイチロー、松井の試合しか見たことがなかった。

 しかし小学校の運動部というのは第二次性徴期の訪れ如何によって如実に能力差が出てしまうものである。学年で最初に成長期を迎えた僕は、小4の途中からレギュラーに選ばれ、小6ではエースに指名されてしまった。(単純に歴が同学年で2番目に長かったというのもあるだろうが)。たまに打てたら嬉しい、自分のポジションに球が飛んでこないといいな(小5の時はライト、小6ではセンターかピッチャー)、三振をしたら監督に怒られる。消極的なモチベーションでプレイするタイプだった。(心理型では防御型というらしい)

 投球時に爪が指にめり込んで血を出しながら投手をやっていたとか、万年最下位だったチームがなぜか最後の大会で優勝できただとか細かなエピソードはあるのだけれど、本題とは逸れるのでこのくらいに留めておく。機会があったら振り返ってみたいと思う。この思い出も今の自分に繋がっているのだろうし。

 そんな感じで大したモチベーションもないくせに、中学でもなんとなくで野球部に入部してしまう。(本当はテニスかバドミントンがやってみたかった。)中学の野球部は「強豪校がやってたらギリ許されるか?」くらいのパワハラが横行していて、運動部の汚点を煮詰めたような場所だった。

 例えば、1年生は球拾いと声出ししか許されない。準備運動のキャッチボールを終えるとグラウンドの端に並び、応援したくもない先輩のために声を枯らす。2年生もそれなりに立場は悪かったのだが、それでもバッティング練習用のピッチャーや内野・外野の守備など生きた球に触る権利はあった。

 例えば、顧問が一切口出ししない。顧問は野球経験のない中年の美術の先生だった。野球が好きだという様子もなく、知識がある感じでもなかった。グラウンドの隅で練習を眺めながらたまにダイエットドリンクを飲むだけ。現状を見ても何も変えようとはしなかった。中学の運動部では原則学年順で体格が良い。武力行使ですべてが決まる場だった。(幸いそのような経験はせずに済んだが。)

 当時2年生が話していたことを覚えている。

「(こんな理不尽な慣習は)俺たちの代で終わらせよう。」

 そういった2年生も3年生が引退した後、同じことを始めた。

 ある日音楽の授業でギターを演奏する機会があった。なんという奏法なのかはわからないが、弦を一本だけ使って「禁断の遊び」という曲を演奏した。思いのほか楽しくて熱中していたら人差し指にマメができた。放課後練習に向かうとバッティング練習のピッチャーをするよう頼まれた。僕は正直に「ギターの練習でマメができてしまったので投げられません」と伝えた。返って来た言葉は「使い物にならんから帰れ」だった。

 こういう思考実験をしたことはないだろうか。教師に「やる気がないなら帰れ」といわれた時、本当に帰ってみたらどうなるのだろうか、と。

 あくまで僕のケースにおいてだが、答えは「誰も引き止めない」だった。それまで虐げられていた境遇に愚痴をこぼしていた同期も、前年最もらしいことを言っていた先輩も誰も僕が練習を放棄して帰宅することを止めなかった。まるで何事もなかったかのように。

 仮に部が部として成り立っていたならば、「部活で指を使うのだからギターでマメができないように気を付けておくべき」といった意見も浮かんだのだろうか。(ぶっちゃけその視野があっても思い当たらなかったと思う)

 その夜、特に何を指導するでもないコーチのような人からのよくわからない説得電話をブツ切りし部活をやめる運びとなった。所属を変えるだけの手続きのはずなのに、外的な要因で2週間ほど事が進まなかったのを覚えている。「カクタス君は運動部なのに勉強も両立していて尊敬していた。」と告白してきた顧問を「僕が部活で一番許せなかったのは先生です。」と切り捨ててようやく正式な退部が決まった。

 今思うと明らかに場違いな部活の顧問をしなければならなかった先生も気の毒なのだが、僕は僕として切羽詰まっていたので若気の至りだと許して欲しい。そこまで大局を意識して発言できるような子供じゃなかったし、今でも当事者になったら似たようなことを言ってしまうだろう。とにかくくだらない上下関係と不必要な理不尽から逃れる必要があった。プライオリティ。

 

 この時始めて僕は有り余る時間と向き合うことになる。小学生の頃は夏休みでさえ、週に5日は練習があって、ほとんど暇な時間がなかったように思う。練習のない日もあったはずなのだが正直あまり覚えていない。野球部の後輩とドッジボールなりサッカーなりをしていたはずなので比較的毎日なにかしらのスポーツをしていたのだろう。

 自分が1年生ということも大きかった。後輩たちは小学生で時間を合わせることも顔を合わせることもなくなっていっていた。おまけに、「何かしらの部活に入っていなければならない雰囲気」もあったので、帰宅部仲間は限られていた。帰り道が同じというだけでつまらない話で間を持たせながら帰るものの、互いの時間を使ってまで仲を深めるほどの熱意はなかった。

 

 ようやく本題。ネットの掲示板に出会う。小学5年生の頃、イナズマイレブンというサッカーアニメ(ゲーム)が流行った。ワンピースにもコナンにもハマらなかった少年の心を揺さぶったのは、超次元サッカーRPGだった。クリスマスにソフトを買ってもらって以来、中1で部活をやめるまでの3年間毎週欠かさずアニメを見ていた。野球をやっていた頃からオタク気質があった。友達と同じゲームをやっていても、僕だけが攻略法をガッツリ調べていたし、キャラや必殺技の名前も憶えていた。

 ある日、父親が使わなくなったノートパソコンを掘り出し、ゲームの攻略法を調べてみた。今でこそ攻略記事を書く専門の会社があったり、解説系youtuberなど情報があふれているが、当時は見やすさの欠片もない有志wiki掲示板くらいしかヒットしなかった。インターネットというものについて認知はしていたが、自分が主体として関わるようなものだとは思っていなかったので、単なるgoogle検索ですら緊張した。同年代の人は割と似た感覚があるのではないだろうか。少なくとも僕の周りでもyoutubeだとかtiktokだとかネット文化がメジャーになり始めたのはここ数年のことのように思える。高校の時ディベート用の資料を調べる時に、スムーズにパソコンを扱えた人は少なかった。

 そんな、ネットに対してウブだった僕は、攻略サイト掲示板の区別もつかず一番にヒットしたサイトに入った。ターニングポイント。そこでは見ず知らずの人達がハンドルネームで本名を隠しながら交流していた。さながら仮面舞踏会。「本当に画面の向こうに人がいるのか?」「レス(投稿)したら誰か返してくれるのだろうか」好奇心を抑えきれず、人生初レスを投稿した。ハンドルネームは当時この世で一番完璧な言葉だと信じていた「フェニックス」。

 掲示板では話題毎にスレッドと呼ばれる部屋が用意されていて、そこによく書き込みをする人同士が仲良くなったり喧嘩したりする。顔なじみというやつ。利用する上で肝心なのはスレッドの最上部に書いてあるルールを頭に入れること、直前のやりとりを見てスレッドの雰囲気をつかむこと。僕が見つけた掲示板は中高生向けのもので、2ちゃんねる(5ちゃんねる)のように混沌とした魔境ではなく、比較的純粋で簡素なやりとりができる場が用意されていたと思う。

 記念すべき初カキコから数分と待たず返信が来た。ルール通りにハンドルネーム、学年、好きなキャラ、一言を書くような一般的な自己紹介だったので事務的な返信だったが、同じ時間にパソコンの向こうで誰かが答えてくれたということがただただ嬉しかった。

 2020年の閉鎖にともない、当時の黒歴史が掘り起こされる可能性が下がったので掲示板の名前も書いておこう。「メビウスリング掲示板」。間違いなく今の僕の人格形成の核となった場所。心の母校。放課後、休日、風邪で休んだ日、中高の5年間の余暇はほとんどここに費やした。何十、何百の人と関わった。

 メビウスリングには話題毎に話す「スレッド」とは別に「日記」機能があった。簡単な手続きでアカウントを発行し、アカウントを持っている人しかコメントできない日記を投稿できた。無数の人が紡いでいくスレッドとは違って、自分の書いた文章が1つの枠を埋める。他者が入り込む余地はコメント欄しかない。スレッドで特定の話題やそこにしかいない仲間と会話し、日記でパーソナルな話題について書き込む。

 面白いことに、日記は日記でそこからつながる人も出てくる。よそ様の新着日記がアカウントメニューの中に表示されるのだ。当時の僕はそれなりに学校の勉強ができたこともあって定期テストの点数を見せびらかす痛いキッズの一員だった。それでも浮かなかったのはテスト結果を晒すという文化が根付いていたからだろうか。物理的な距離はあっても僕らはクラスメイトのように関わり合い、他人の点数に感想を言い合い、仲良くなったり距離を置いたりしていた。リアルの友人じゃないからこそできる話や、起こる問題にも直面した。

 マイメビというフレンド機能もあった。自分のプロフィール欄の下にマイメビの一覧が表示され、それぞれに対して紹介文を添えることができた。誰とも被らない紹介文を書くのが好きだった。

 傾向として、利用者には比較的インドアな人が多かった。もっと踏み込んだ言い方をすると、学校に居心地の良さを感じていない人たち。僕もその一人だった。理由は様々で、家庭の事情を抱えていたり、同級生・部活内での不和があったり、なんとなくだったり。今思うとそんな若者のよりどころとなる受け皿があって良かったなと思う。少なくとも僕がかかわった人たちは誰にも相談できずに全く、完全に1人で問題を抱えることはなかったのだから(開示の程度はあるけれど)。この話も長くなるので別記事に書くことにする。

 そんな心の母校とも呼べる場所で日記を書いていたことが僕の原体験となっている。そこから派生してtwitterにのめり込んだことも、文章を書くことに対する今の感覚を形成していると思う。

 

 思考はアウトプットする前から存在しているのか考える。僕らは主体として生きているので主観的には何かしら考えて日々過ごしているように感じる。独立した個体として生きている間はそういった内的思考を漂わせているだけで問題ないが、他者との関わりが生じてくると外的思考を練る必要が出てくる。正直、内的思考に合理性はそんなにないと思う。誰かに何かを伝えるとき、自分の考えをより正確に伝えるためにわかりやすさでパッケージングする必要がある。その際に合理化というプロセスを踏むのであって、内的思考の段階では案外ハチャメチャな理屈を通してしまっているような気がする。いざ話し始めたり書き始めたりする時に始めて自分の思考の矛盾だったり粗さだったりに気づくのではないか。

 久しぶりにブログを書きながらぼんやりと思った。わけもなく徹夜で書いたのである程度読めるものになっていたらと願う。