No.5 DL

日々の好奇心の欠片を不定期に放出する

必要なことだった

 ブログを再開した。表現の豊かさが欲しかった。自分の感性に形を与えたいと思った。日記をつけてみたこともあったが、文化的な営みとは程遠い、1日を箇条書きにするだけの単なる記録に過ぎなかった。正の字で物を数えるような。

 僕には自分の世界に没頭してエゴを煮詰めた言葉を出力する場所が必要だと思った。自己完結はできないので誰かに見て欲しい。エゴなので。

 ものを書くという行為は、自覚していない自分という彫像を石の中から掘り出すようなものだと思っている。その精度はまちまちで、徹底的に形を追求する人もいれば、暫定的な形を真だと捉えて満足できる人もいる。

 とはいえ、どちらかというと自分は感性が乏しい人間だろうと思う。何につけても感想が書けない。情報を吸収して、吐き出すだけ。他人の気持ちを想像して発言できるような思慮深さも慎重さもない。衝動的に独善的で排他的な態度をとってしまうことが多い。調子の良い時ほどその傾向は強いように思う。調子の悪い時でさえそのようなことをしてしまう。感性が乏しいというより磨くような体験をしてこなかったのかもしれない。僕から見て感性が豊かに見える人たちが意識的にそう成ったのかどうかはわからないが。

 

 ブログを書くのは3年ぶりらしい。便宜的に過去記事に目を通してみた。肩ひじを張った窮屈な文章に見える。3年経ったからだろうか。客観視できるほど過去の自分との心的・時間的距離が空いたからだろうか。

 過去にブログのようなもの、を書いていたことがある。中学2年の時だ。中1の冬におよそ5年間続けていた野球をやめた。これを説明するには野球を始めた理由と野球に対する愛について話しておく必要があると思う。久しぶりの記事としてちょうどよい題材かはわからないが、感覚をつかむためにも話をさせて欲しい。

 

 少年野球。元々自分の意志で始めたわけではなかった。ある日突然幼馴染が入部した。

 今の家は小学校に入る1年前に越してきた場所だった(物心的実家)。越してくる前は集合住宅に住んでいたらしい。物心がついていたかどうかおぼろげ。当時の思い出といえばいつもと違う部屋で寝た日の夜お化けの出てくる夢を見て泣いたこと、三輪車で段差を乗り越えた時の物理的な衝撃に恐怖したこと、1階に住んでいた友達が玄関ではなく窓から中庭に出てこられることが羨ましかったこと、くらいだろうか。案外覚えてる?

 同級生の中ではそれなりに体格が良かったらしく、保育園だか幼稚園だかでは結構輪の中心にいることが多かったらしい。5,6歳の頃に僕と妹が立て続けに入院する時期があって、通院の都合で今の実家に越してくることになった。転園初日に色水に粘土を入れて重心を不安定にさせたヨーヨーのようなものを持って、見知らぬ顔が自分を取り囲んでいたのを覚えている。

こんなの

 その時初めて「生きていく上では快適な空間を抜け出さなければならないことがある」と知った。そして、自分が人と仲良くなることに時間がかかること、築いた人間関係も失われることがあることを知った。

 そんなこんなで引っ越してからせっかくできた友達(との時間?)を失いたくなくてスポーツクラブに入った。後に入部する中学野球部に比べればはるかに良い環境でプレイできたが、あまり乗り気ではなかったので小4くらいから毎日「やめたい」と親に零す日々を送っていた。当然プロ野球にも興味がなく、父が居間で垂れ流していた(居間が僕の勉強部屋だった)メイチロー、松井の試合しか見たことがなかった。

 しかし小学校の運動部というのは第二次性徴期の訪れ如何によって如実に能力差が出てしまうものである。学年で最初に成長期を迎えた僕は、小4の途中からレギュラーに選ばれ、小6ではエースに指名されてしまった。(単純に歴が同学年で2番目に長かったというのもあるだろうが)。たまに打てたら嬉しい、自分のポジションに球が飛んでこないといいな(小5の時はライト、小6ではセンターかピッチャー)、三振をしたら監督に怒られる。消極的なモチベーションでプレイするタイプだった。(心理型では防御型というらしい)

 投球時に爪が指にめり込んで血を出しながら投手をやっていたとか、万年最下位だったチームがなぜか最後の大会で優勝できただとか細かなエピソードはあるのだけれど、本題とは逸れるのでこのくらいに留めておく。機会があったら振り返ってみたいと思う。この思い出も今の自分に繋がっているのだろうし。

 そんな感じで大したモチベーションもないくせに、中学でもなんとなくで野球部に入部してしまう。(本当はテニスかバドミントンがやってみたかった。)中学の野球部は「強豪校がやってたらギリ許されるか?」くらいのパワハラが横行していて、運動部の汚点を煮詰めたような場所だった。

 例えば、1年生は球拾いと声出ししか許されない。準備運動のキャッチボールを終えるとグラウンドの端に並び、応援したくもない先輩のために声を枯らす。2年生もそれなりに立場は悪かったのだが、それでもバッティング練習用のピッチャーや内野・外野の守備など生きた球に触る権利はあった。

 例えば、顧問が一切口出ししない。顧問は野球経験のない中年の美術の先生だった。野球が好きだという様子もなく、知識がある感じでもなかった。グラウンドの隅で練習を眺めながらたまにダイエットドリンクを飲むだけ。現状を見ても何も変えようとはしなかった。中学の運動部では原則学年順で体格が良い。武力行使ですべてが決まる場だった。(幸いそのような経験はせずに済んだが。)

 当時2年生が話していたことを覚えている。

「(こんな理不尽な慣習は)俺たちの代で終わらせよう。」

 そういった2年生も3年生が引退した後、同じことを始めた。

 ある日音楽の授業でギターを演奏する機会があった。なんという奏法なのかはわからないが、弦を一本だけ使って「禁断の遊び」という曲を演奏した。思いのほか楽しくて熱中していたら人差し指にマメができた。放課後練習に向かうとバッティング練習のピッチャーをするよう頼まれた。僕は正直に「ギターの練習でマメができてしまったので投げられません」と伝えた。返って来た言葉は「使い物にならんから帰れ」だった。

 こういう思考実験をしたことはないだろうか。教師に「やる気がないなら帰れ」といわれた時、本当に帰ってみたらどうなるのだろうか、と。

 あくまで僕のケースにおいてだが、答えは「誰も引き止めない」だった。それまで虐げられていた境遇に愚痴をこぼしていた同期も、前年最もらしいことを言っていた先輩も誰も僕が練習を放棄して帰宅することを止めなかった。まるで何事もなかったかのように。

 仮に部が部として成り立っていたならば、「部活で指を使うのだからギターでマメができないように気を付けておくべき」といった意見も浮かんだのだろうか。(ぶっちゃけその視野があっても思い当たらなかったと思う)

 その夜、特に何を指導するでもないコーチのような人からのよくわからない説得電話をブツ切りし部活をやめる運びとなった。所属を変えるだけの手続きのはずなのに、外的な要因で2週間ほど事が進まなかったのを覚えている。「カクタス君は運動部なのに勉強も両立していて尊敬していた。」と告白してきた顧問を「僕が部活で一番許せなかったのは先生です。」と切り捨ててようやく正式な退部が決まった。

 今思うと明らかに場違いな部活の顧問をしなければならなかった先生も気の毒なのだが、僕は僕として切羽詰まっていたので若気の至りだと許して欲しい。そこまで大局を意識して発言できるような子供じゃなかったし、今でも当事者になったら似たようなことを言ってしまうだろう。とにかくくだらない上下関係と不必要な理不尽から逃れる必要があった。プライオリティ。

 

 この時始めて僕は有り余る時間と向き合うことになる。小学生の頃は夏休みでさえ、週に5日は練習があって、ほとんど暇な時間がなかったように思う。練習のない日もあったはずなのだが正直あまり覚えていない。野球部の後輩とドッジボールなりサッカーなりをしていたはずなので比較的毎日なにかしらのスポーツをしていたのだろう。

 自分が1年生ということも大きかった。後輩たちは小学生で時間を合わせることも顔を合わせることもなくなっていっていた。おまけに、「何かしらの部活に入っていなければならない雰囲気」もあったので、帰宅部仲間は限られていた。帰り道が同じというだけでつまらない話で間を持たせながら帰るものの、互いの時間を使ってまで仲を深めるほどの熱意はなかった。

 

 ようやく本題。ネットの掲示板に出会う。小学5年生の頃、イナズマイレブンというサッカーアニメ(ゲーム)が流行った。ワンピースにもコナンにもハマらなかった少年の心を揺さぶったのは、超次元サッカーRPGだった。クリスマスにソフトを買ってもらって以来、中1で部活をやめるまでの3年間毎週欠かさずアニメを見ていた。野球をやっていた頃からオタク気質があった。友達と同じゲームをやっていても、僕だけが攻略法をガッツリ調べていたし、キャラや必殺技の名前も憶えていた。

 ある日、父親が使わなくなったノートパソコンを掘り出し、ゲームの攻略法を調べてみた。今でこそ攻略記事を書く専門の会社があったり、解説系youtuberなど情報があふれているが、当時は見やすさの欠片もない有志wiki掲示板くらいしかヒットしなかった。インターネットというものについて認知はしていたが、自分が主体として関わるようなものだとは思っていなかったので、単なるgoogle検索ですら緊張した。同年代の人は割と似た感覚があるのではないだろうか。少なくとも僕の周りでもyoutubeだとかtiktokだとかネット文化がメジャーになり始めたのはここ数年のことのように思える。高校の時ディベート用の資料を調べる時に、スムーズにパソコンを扱えた人は少なかった。

 そんな、ネットに対してウブだった僕は、攻略サイト掲示板の区別もつかず一番にヒットしたサイトに入った。ターニングポイント。そこでは見ず知らずの人達がハンドルネームで本名を隠しながら交流していた。さながら仮面舞踏会。「本当に画面の向こうに人がいるのか?」「レス(投稿)したら誰か返してくれるのだろうか」好奇心を抑えきれず、人生初レスを投稿した。ハンドルネームは当時この世で一番完璧な言葉だと信じていた「フェニックス」。

 掲示板では話題毎にスレッドと呼ばれる部屋が用意されていて、そこによく書き込みをする人同士が仲良くなったり喧嘩したりする。顔なじみというやつ。利用する上で肝心なのはスレッドの最上部に書いてあるルールを頭に入れること、直前のやりとりを見てスレッドの雰囲気をつかむこと。僕が見つけた掲示板は中高生向けのもので、2ちゃんねる(5ちゃんねる)のように混沌とした魔境ではなく、比較的純粋で簡素なやりとりができる場が用意されていたと思う。

 記念すべき初カキコから数分と待たず返信が来た。ルール通りにハンドルネーム、学年、好きなキャラ、一言を書くような一般的な自己紹介だったので事務的な返信だったが、同じ時間にパソコンの向こうで誰かが答えてくれたということがただただ嬉しかった。

 2020年の閉鎖にともない、当時の黒歴史が掘り起こされる可能性が下がったので掲示板の名前も書いておこう。「メビウスリング掲示板」。間違いなく今の僕の人格形成の核となった場所。心の母校。放課後、休日、風邪で休んだ日、中高の5年間の余暇はほとんどここに費やした。何十、何百の人と関わった。

 メビウスリングには話題毎に話す「スレッド」とは別に「日記」機能があった。簡単な手続きでアカウントを発行し、アカウントを持っている人しかコメントできない日記を投稿できた。無数の人が紡いでいくスレッドとは違って、自分の書いた文章が1つの枠を埋める。他者が入り込む余地はコメント欄しかない。スレッドで特定の話題やそこにしかいない仲間と会話し、日記でパーソナルな話題について書き込む。

 面白いことに、日記は日記でそこからつながる人も出てくる。よそ様の新着日記がアカウントメニューの中に表示されるのだ。当時の僕はそれなりに学校の勉強ができたこともあって定期テストの点数を見せびらかす痛いキッズの一員だった。それでも浮かなかったのはテスト結果を晒すという文化が根付いていたからだろうか。物理的な距離はあっても僕らはクラスメイトのように関わり合い、他人の点数に感想を言い合い、仲良くなったり距離を置いたりしていた。リアルの友人じゃないからこそできる話や、起こる問題にも直面した。

 マイメビというフレンド機能もあった。自分のプロフィール欄の下にマイメビの一覧が表示され、それぞれに対して紹介文を添えることができた。誰とも被らない紹介文を書くのが好きだった。

 傾向として、利用者には比較的インドアな人が多かった。もっと踏み込んだ言い方をすると、学校に居心地の良さを感じていない人たち。僕もその一人だった。理由は様々で、家庭の事情を抱えていたり、同級生・部活内での不和があったり、なんとなくだったり。今思うとそんな若者のよりどころとなる受け皿があって良かったなと思う。少なくとも僕がかかわった人たちは誰にも相談できずに全く、完全に1人で問題を抱えることはなかったのだから(開示の程度はあるけれど)。この話も長くなるので別記事に書くことにする。

 そんな心の母校とも呼べる場所で日記を書いていたことが僕の原体験となっている。そこから派生してtwitterにのめり込んだことも、文章を書くことに対する今の感覚を形成していると思う。

 

 思考はアウトプットする前から存在しているのか考える。僕らは主体として生きているので主観的には何かしら考えて日々過ごしているように感じる。独立した個体として生きている間はそういった内的思考を漂わせているだけで問題ないが、他者との関わりが生じてくると外的思考を練る必要が出てくる。正直、内的思考に合理性はそんなにないと思う。誰かに何かを伝えるとき、自分の考えをより正確に伝えるためにわかりやすさでパッケージングする必要がある。その際に合理化というプロセスを踏むのであって、内的思考の段階では案外ハチャメチャな理屈を通してしまっているような気がする。いざ話し始めたり書き始めたりする時に始めて自分の思考の矛盾だったり粗さだったりに気づくのではないか。

 久しぶりにブログを書きながらぼんやりと思った。わけもなく徹夜で書いたのである程度読めるものになっていたらと願う。

 

 

 

 

 

シャーデンフロイデのお供に

僕は一度死んでいます。

 

 

先日、2年ぶりに進級しました。つまり、2度留年しているのです。

今回は、留年した理由やその間に感じていたことについての独白です。

 

留年した理由。

まずロシア語が嫌いだったこと。

自殺かロシア語を勉強するかの二択を突きつけられたら、自殺を選んでしまいかねないくらい嫌いでした。

今思うと極度の視野狭窄だったと思います。

留年こそしたものの、必修以外の単位は全てとっているのがある程度証拠になるのではないでしょうか。

1限で他人の出席カードの代筆を8割方請け負う傍ら、専攻の授業にはほとんど出席しない、といった歪さも抱えていました。

不思議なもので、教室に入るだけで動悸を感じるのです。

当時は大学から300m程の距離に住んでいましたが、それでも教室が遠く感じるほど、嫌悪感が積もりに積もっていました。

 

それから、ソーシャルゲームへの現実逃避が加速したこと。

中1の終わりに部活をやめ、それからネットの世界に魅了されていた背景が強く影響したんだと思います。

純粋にゲームを楽しむだけでは物足りず、バイトで稼いだ金を片っ端から課金しまくりました。

大体学費1年分くらいですね。

イベント中の約2週間、18時間のプレイを毎日続けるなど、完全に中毒でした。

 

ソーシャルゲームのイベントは、現実の催し物とタイミングを合わせて行われることが多いです。

もちろん、正月もそのイベントの一つ。

2年前の正月、僕は一番熱心に育成していたキャラを大幅に強化することに成功しました。

(そのゲームでは、同じキャラを5枚引き当てることで必殺技が最大強化となります。この時僕は、新たに3枚そのキャラを引き当て、最大強化まであと一歩のところまで強化しました。もちろん課金です。)

天にも昇る気持ちでスクショを撮りまくり、ゲームに熱中する時間がさらに増えました。

祖父の訃報には目もくれずに。

祖父は数年前に脳梗塞で倒れ、半身不随で施設での生活を続けていました。

刺激のない日々。

脳は加速度的に衰え、娘である母のことも判別できないような状態でした。

正月には自作した米を使って餅を作ってくれるような人でした。

関わりが薄かったとはいえ、肉親の死に対して何の感情も抱かなかった、いえ、抱けなかったのです。僕は、すっかり共感力のない人間に成り果てていたのです。

 

世界は自分中心。

自分のことは棚に上げ、興味のない人間は簡単に切り捨てる。

他人に厳しく自分に甘い。

実にエゴイスティックでした。

おまけに向上心もない。

死んでいるのと変わらない2年間でした。

 

絶望的な現実、日に日に他人が信用できなくなる一方、バイト先に行くと大学名だけでチヤホヤされる。留年という汚点を隠すためにつき続ける嘘に精神を蝕まれていきました。

 

1年前まで僕は死んでいた。

 

 

 

僕の座右の銘は「自業自得」です。

ロシア語への絶望も、視野狭窄も、現実逃避も全て自分のせい。

散々、悲劇のように嘆いてきましたが全ては身から出た錆。

己の能力不足が招いた結果なのです。

僕は僕自身に期待するのをやめました。

そして、自分自身を墓場まで命を運ぶための装置だと再定義しました。

こんな僕でも、心臓が動く限り生き続けなければなりません。

それならば、乗り物は快適な方が良い。

過去が変えられないなら、その失敗を利用してやろうと思いました。

 

最大の課題となったのは、「何に対してもやる気が出ないこと」でした。

 

調べてみると、食事等ライフスタイルに関する数々の悪習慣により男性ホルモンの分泌が減り、モチベーションの低下が引き起こされることが判明。

ソシャゲ中毒の頃は、「空腹が満たせれば良い」くらいの感覚だったため、冷凍の唐揚げとごはんや、グラノーラに牛乳だけ、といった非常に偏った食事をしていました。

睡眠に関しても、日付変更直後のガチャと起床後のログインが体に染み付いていたため、寝落ちギリギリまでスマホを直視するありさま。

意志の力だとか才能だとか自己肯定感だとかそんな身もふたもないことをに悩む前に、改善できるところを改善して、それでもダメなら死のう、と決意し健康的なライフスタイルを目指し始めました。

何事にもそれを引き起こす条件が存在します。

悩むことは無駄だとは思いませんが、悩み続ける自分が嫌ならとりあえずその他の条件を整えてみよう、と考えています。

 

もちろん、過去の自分のことは好きにはなれません。どう考えても嫌いです。

それでも、そんな自分を生み出してしまった僕には、今の自分を大切にし、未来の自分に嫌われないようにする責任があります。

過去の自分が傷つけた方々には償いきれません。

これから出会う人、今関わっている人を大切にしたい。

気を配れる心の余裕を持ちたい。

そのために可能な限り良好な健康状態を維持するよう努めています。

健全な精神は健全な身体に宿る。

信じていいよね。

共感力を鍛えるため、物語に触れたり、人の話を聞く練習も始めました。

まだまだ至らぬ点ばかりではありますが、出来る限り努力します。

 

悲劇でもなんでもない、積もり積もった怠惰が招いた空白の2年間。

消して忘れることのできない2年間。

いつか完全に乗り越えることができたら、同じような壁にぶつかっている誰かの手助けをしたいです。

 

 

 

 

日常改造記録

気を抜くとすぐこの有り様である。(3/7 土曜)

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食事も褒められたものではなかった。

日々の振り返りと改善を深める必要があると感じた。

行動Aに対する期待値を10段階で予測し、行動Aの終了後に再度10段階で評価する。

 

「自分のことは自分が一番わかっている」

これはある意味真実だと思う。

なぜなら私たちは自分が思っているほど他人のことを理解していないし、他人も私たちのことをほとんど理解していない(できない)からだ。

とはいえ、私たちは自分自身のことをどれだけ理解できているのだろう。

なんとなく、ぼんやりと、こういう時はこんな感じ、みたいな曖昧な評価に終わりがちなのではなかろうか。

 

行動には必ず理由がある。

それなのに理由を問われると「なんとなく」としか答えることができない。

これではあまりに自己理解と表現力が欠けている。 

 

そこで、本ブログでは、自分自身を客観視する訓練として、日常生活で自分がとった行動を考察していこうと思う。

 

 

16,500 #1

16,500 #1

 

2020/02/23~29

近況:図書館でバイトしてます。

 

人の心があることの証明として、見出しを作ることにした。ある程度見やすくなると思う。

良い感じの見出しが思いつかず(こだわりがないとも言える)、非常に簡素なものになってしまったことは承知願いたい。

気付いたら6000字を超えていたので遠慮無く目次から気になったところに飛んでくださいね。

 

 

 

 用語

ロココ

岩を意味するロカイユ(rocaille)が由来。1730年代に流行した貝殻の曲線を多用したインテリア装飾のこと。

 図書館バイト中に書庫で見かけた「ロココ世紀」という文字列が気になった。Wikipediaを見ても何のこっちゃ、って感じでした。

 イナズマイレブンに登場する、コトアール代表「リトルギガント」のキャプテン、ロココ=ウルパの時代が到来したわけではない。

 

 

1サービング

サービングサイズ(ポーションサイズ)、

4歳以上のヒトが一回に摂取する量

健康に関する記事を読んでいる時や、サプリの成分表を見ている時に度々目にしていた単位。なんとも曖昧な定義に思えるが、化学におけるmol(モル)のような役割なのだろうか。

 

農林水産省

https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/zissen_navi/balance/division.html

 

 

インチ

1インチ=25.4ミリメートル。

ヤードポンド法における単位。

ヤードポンド法を英語で「インペリアルユニット」って表現するのめちゃくちゃカッコいいと思う。

 

 

レーザーディスク

直径30cm、両面で最大2時間の映像を記録できる光ディスク。キャッチコピーは「絵の出るレコード」。

1990年代前半が最盛期。当時はレンタルできないというデメリットあり。

生産ラインが少なく、需要に供給が追いついていなかった

DVD(耐久性、小型、安価)の前の王。

2007年3月にディスクの生産終了。数年後に再生機も終了。なんだか悲しくなりました。

なお、図書館ではLD仕様の映画が見れる模様。

 

 

ケロイド

説明は複雑だが画像を見ればなんとなくわかるタイプのやつ。閲覧注意。

 

 

腹臥(ふくがい)

うつぶせのこと。

 

 

エス

wasteがなまってできた言葉。機械類の油を拭き取るために用いる布。紙製のものもある。

 

 

本の各部名称

天・地・小口・のど、など、普段は意識していなかった部位にも名前がついていることが判明。ただ、ピンポイントで部位名を伝えたところで瞬時に理解してくれる人が何人いるのかは謎。

 

大阪府中之島図書館

https://www.library.pref.osaka.jp/site/osaka/book-parts.html

 

 

タトルテープ

特殊な信号を発し、不正持ち出しを防ぐ。

1000本入りで39,000円。

これまた図書館でのバイト中に気になった。ぶっちゃけ、未処理の図書館の本がなんでゲートに反応するのかよくわかっていなかった。ぱっと見は栞。弊学の図書館では業者のおばちゃんたちが1日2000冊くらい手作業で本に貼り付けてました。

 

株式会社伊藤伊

https://www.itin.jp/catalog4/top/entrance_system/tape/tape.html

 

 

  

補綴(ほてい/ほてつ)

身体の欠損した部位を人工物で補うこと

 

 

足根骨

足の骨の総称。各部位暗記のゴロ併せに「ナイチンゲール消臭力」というものがある。

 

 

首座主教

キリスト教の聖職者の役職のひとつ。primate,примас

 

 

装具学

補綴に関する学問。

 

 

なんていうのかわからんやつ

図書館の本に押されている立体的なスタンプ

エンボッサー(型押しスタンプ)。

 

辞書の小口にアルファベットが書かれているやつ

インデックス

小口の一部を切り込んだインデックス=爪掛け

 

疑問各種

トリュフチョコにトリュフは入っているのか

本来はトリュフに形を似せて作ったもの。

本当にトリュフが入っているものもある。

漢字で書くと「西洋松露」。

 

 

「念のため」の「念」って何?

為念と書くこともある(非公式?)

「念」に「気をつけること、注意すること」の意味がある。

「心の働きの一つ」「体から溢れ出す生命エネルギー(オーラ)を自在に使いこなす力」

 

プリンターのウォームアップって何してるの?

ウォームアップ=プリンターの電源を入れてから機会が使えるようになるまでの時間。

レーザープリンターはトナーと呼ばれる粉を熱で紙に圧着させることで色をつけるため、ウォームアップタイム中に本体を温める必要がある。(200度)

ウォームアップから最初の1枚が出力されるまでを「ファーストプリントアウト(FPO)」という。

プリンターを選ぶ時に見るポイント

大量に刷る必要のある時→ppm(page per minute)

少量だけ刷る必要のある時→FPO

 

コピー機GMEN

https://www.copyki-gmen.com/fukugoki/archives/6417

 

ITmedia

https://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0809/25/news077.html

 

 

コロナウィルスの概要

・潜伏期間1〜12.5日

・発症しない人もいる

・発熱や呼吸器の異常が1週間ほど持続する

・風邪やインフルエンザは3〜4日持続

・呼吸器症の悪化は肺炎合併のサイン

・1週間以内→自宅で安静にする

・1週間以上→医療機関

・高齢者、基礎疾患持ちの人が重症化しやすい。小児の重症化の例は少ない。

・基礎疾患→糖尿病、心不全、腎障害、透析患者など

・現在実施されている検査(PCR法)には限界がある

核酸検査でウィルスを増幅させて検出する

→一度目の検査で陰性でも、二回目で陽性となることもある。ウィルス数はインフルエンザの1/100~1/1,000

・脱水対策、解熱剤の使用などの対症療法が中心

飛沫感染がメイン

 

日本環境感染学会

http://www.kankyokansen.org/uploads/uploads/files/jsipc/covid19_mizugiwa_200221.pdf

 

糖尿病の種類

インスリン不全。血糖が増えてしまう。心臓病、失明、腎不全、足の切断といった合併症に繋がる恐れあり。

1型→インスリンがほとんど出なくなる

2型→インスリンの分泌が減ったり効かなくなったりする

国立国際医療研究センター

http://dmic.ncgm.go.jp/general/about-dm/010/010/01.html#04

 

 今週触れた作品・サービス

ドラゴンボールZ 神と神

39年ぶりに目覚めた破壊神ビルスが地球を破壊するかどうかを巡る90分。

スーパーサイヤ人ゴッドの発動条件がわかった。ベジータがちょっと痛々しい。

ドラゴンボールには格闘技のように、単に試合の勝敗を知るだけでは味わえない不思議な緊張感がありますね。 しばらく観なくて良いです。

 

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

「打ち上げ花火見ない派」だったが、他者の視点を学ぶにはこれまで食わず嫌いだったものに触れてみることが大切だと思い、視聴。

というのは建前で、Amazon Primeビデオでサーチしている時に、サムネに映るなずな(ヒロイン)が化物語戦場ヶ原ひたぎに見えたから。

するとびっくり、監督は化物語を担当した方だったし、製作会社も同じだった。斎藤千和さんも出ている。

作中のアングルにも似たものを感じた。

タイムリープものだが、リープ後特定ののポイントに戻るわけではなく、過去のある時点で主人公が望んだ結果を叶えたifの選択肢に飛べるというとんでもないご都合展開だった。(少しの例外はあった)

具体例をあげる。

買い物に行った場面を想像してほしい。目の前にはしばらく品切れしていたさつまいもの箱がある。残り1点だが他に客もいないし、重いので、店内を一通り見て回ってから取りに戻るとする。しかし、気づけば新たに店にやってきた客が購入しており、渋々じゃがいもを手に取り帰宅する。

ここで謎の玉を地面に投げつけ、タイムリープを起こす。

通常のタイムリープものならリープするポイントは最初にさつまいもの箱を見かけ、後から取りに戻ろうと決めた瞬間である。

対して、この作品のリープは、自分が既にさつまいもを購入し、買い物を終えている選択肢に飛ぶ。

「あの時ああしてれば良かった」と後悔した行動をやり直す必要がないのだ。ゆとり製造機。

映画作品だけあって、主人公が謎の玉(綺麗だ)を初めて投げるシーンはめちゃくちゃ綺麗だと思いました。

なずなが松田聖子の歌を歌うシーンがあるだが、「デレステ しきにゃん アイロニカル」で

ggるとビジュアルそっくりなキャラが出てくる。

一見すると、青少年の純情を描いた夏に放映されて然るべき映画だが、なずなと典道がそれぞれなぜ互いのことが好きなのかがよく分からなかった。

「恋に理由なんている?」というお決まりの文句がベストアンサーなのかもしれない。

セリフの少ない先生役に花澤香菜さんや櫻井孝宏さんを起用する辺りお金はかかってそう。

ますます物語シリーズちっくだなぁと思ったポイントでした。

 

 

蛇にピアス

実は貸し出した本の返却を延滞していたため、10ヶ月ほど本を借りることができなかった。そういう背景があったので、ダメ元でWeb予約をしてみたところ、すんなりと予約できた。安心し、予約を解除したつもりだったのだが(元々借りる予定はなかった。バイト中に見かけたタイトルに少し興味があっただけなのだ)、そちらの方は上手くいかなかったようで、気がつけば手元に届いていた。

芥川賞を受賞しているとのことだが、文学賞には疎いため、ある程度バイアスを除去して読めたと思う。

ダーク、アンダーグラウンドといった言葉が似合う作品。

読みながら、「限りなく透明に近いブルーに雰囲気が似てるなぁ」と思っていたら、村上龍さんが解説を書いていた。

登場人物は主にアマ(男)、ルイ(女)、シバ(男)の3人。

 

アマ

→スプリットタン(舌ピアスを拡大することで形成する先端が二つに裂けた蛇のような舌)。めっちゃピアスしてる。ルイがめっちゃ好き。ルイに触れた暴力団員を殴殺するくらい好き。龍のタトゥー。

ルイ

→主人公。アマのスプリットタンに憧れる。舌ピ拡大中。タトゥーにもハマり、麒麟と龍のタトゥーを入れてもらう傍ら、シバとヤリまくる。ドM。アル中。

シバ

→彫り師。アマにバイト先を紹介しているあたり面倒見は良いのかもしれない。まぁ彼女は寝取るけど。ドS。人を殺したことがある。

 

1時間ほどで読み切れるくらいの分量。そのため、あらすじを書くとほとんどネタバレになってしまう。

文学作品の分析は本当に難しいと思う。少なくとも僕の好みではなかった。

住む世界が違う、と思えるような彼らが生きているのもまた、空想とはいえ僕たちが生きている世界の延長線上にある。「現実にあり得るかもしれない」と思わされた時点でリアリティの存在を認めざるを得なかった。

人生は「この場合正しいのはAで、別のケースならばB。」というような明確な答えがある場面ばかりではない。諦めるのか、何もせずに悩み続けるのか、いちかばちかやってみるのか、選択肢も人ぞれぞれ。そんな一般化できない曖昧さを感じることこそが一般的である、そう感じた。誰しも言葉にできないもやもやを抱えているものである。ギャングであろうとギャルであろうとパンクであろうと。

 

SLOW RUSSIAN LANGUAGE

ポッドキャストの番組。図書館へ片道50分ほど自転車に乗っているので、その間にできる勉強法を考えた結果辿り着いた。「英語のリスニングもしたいけどロシア語もしないとな〜」というお悩みをお持ちの方におすすめ。超絶スローなロシア語を読んだ後、非常にわかりやすい英語で解説してくれる。番組詳細を開くと、各回で取り扱った内容のテキストが見れる。控え目に言って神。リスナーの要望で題材を決めている。速度を上げてもロシア語はゆっくり聞こえるため、2倍速がおすすめ。

Slow Russian

Slow Russian

podcasts.apple.com

なお、同じパーソナリティーの別番組もある。こちらは上述のものよりはスピードが出ている。

TPRS Russian – Effortless Russian

TPRS Russian – Effortless Russian

  • Daria Molchanova – Real Russian Club
  • 言語学
  • ¥0

podcasts.apple.com

 

座り過ぎに対する意識調査

先週から英語の記事ないし論文を読むようにしている。

座りすぎの悪影響を現代人はほとんど認識していないとのこと。

少なくとも1時間に一度は立ち上がった方が良い。

頭脳労働者ならなおさら。寿命が縮んでますよ。

 

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/07448481.2019.1661419?scroll=top&journalCode=vach20

 

 

あとがき

   2020年も早いもんで1/6が経過。今年は年間100冊本を読むことを抱負に掲げたが、最近はこの目標設定に対して疑問を持っている。

 そもそも人はなぜ本を読むのか。「他人の経験から学ぶため、自分以外の視点を獲得するため、新たに明かになった情報を得るため、娯楽のため」僕が本を読む理由はざっくりこの4点に依る。

 そして、本を読むからにはその内容を身につけたいものである。そう考えた時に、一度読んだ本の内容を完璧に理解し、実践に移せるのかという問題に焦点が移る。無論、そんなことは不可能である。

 つまり、年始に立てた「年間100冊」という目標はあまりにもアバウトで、冊数だけでクリアしたとしても、冊数分の知識が身についているわけではない、言うなれば仮初の読書歴となる。そもそも一冊あたりのページ数、文字数に至るまで千差万別であるため、定量化しているようでできていない。そういう結論に達したため冊数カウントをやめてしまった。

 もちろん、触れる情報の絶対量を増やすという目的で、冊数を目標にするのはかなりアリだと思う。冊数だけを求めて闇雲に次の本を探し、振り返った時に何を読んでいたのか思い出せないような経験をしたくない、と思ったのだ。

 

 1週間分となると、これ以外にもまだまだ気になったことはあった。好奇心はナマモノだと思っているため即時に解決したいところだが、思うように時間がとれなかったり、調べていたら興が乗ってリサーチにもっと時間をかけたくなったりした。

 現在ノリまくってるのは「花粉症の対策」であり、図書館の関連書籍の情報を比較検討しようと思っている。かれこれ5年ほど苦しんでいるにもかかわらず、花粉症に対する知識が乏しいので、これを機にこれからも長く付き合うことになる症状に対策を打っていきたい。

 ちなみに今年は飛散量が少ないとの予想を見かけたが花粉症各位如何だろうか。僕は昨年比で症状が軽いような気もするが、何しろ食生活をガラリと変更したため単純比較ができない。

 ともあれ、たった1週間でも数十個の物事に興味を惹かれ、知らない世界の存在を再認識できたのは僥倖だった。また、その一つ一つに何かしらの魅力があり、それを追求しようと思うと時間がいくらあっても足りない。そう感じるようになった。

 かつては日常の全てが灰色で、ただただ時間の経過を目的に惰眠を貪っていた。その頃に比べると少しは前向きになれたような気がする。

 作品選択にあたって考えの幅を広げるため普段は好んで選ばないもの、むしろ嫌いなジャンルを選ぶようにした。純度100%の嫌いは存在しないと思っているので、苦手意識の中にこそ楽しみを見出していきたい。

 

 そういえば、「嘘とカメレオン」「緑黄色社会」聴き始めました。

#0ブログ再開しました

 久しぶりにブログを書いてみる気になった。

 以前はガラにもなく毎日更新を目指したり、無駄にハイテンションを演じたり、思い返すと恥ずかしくなるくらい空を回っては回り倒していた。

 今回は(有り体に言えば等身大)、背伸びをせず、日々感じたことをそのまま綴ろうと思う。

 昔から「何を考えているのかよくわからない」、「頭の中を覗いてみたい」と言われることがあった。(ありがたいことに?)僕自身は呑気なことに、ミステリアスな人物に憧れていたため、それらを褒め言葉のように捉えていた。神秘性がある種の魅力を醸すこともあるのだろう。貫き通すことができるなら。

 最近は人との交流において、ある程度のワカリヤスサを強く信仰するようになった。改宗である。

 万年反抗期のひねくれキッズがある程度の謙虚さを手に入れた(当社比)。無論、今年の抱負は「人に頼ること」である。(よろしくお願いします)

 更新頻度は週一を目標にしている。というのも、ブログを再開するにあたって、1週間の振り返りつつ自分の行いを省みる時間を設けようと思ったのだ。

 挫折体験の中で内省を重ねた結果、自分自身の好奇心を育んでみたくなった。相変わらず放っておくとすぐに横になって携帯端末の奴隷になってしまう。自分の心をネグレクトしていては交流もクソもない。

 よって扱う題材は「その週で好奇心を動かされたこと」になると思う。図書館を歩いていて、気になったことがたまたま目に入った本のタイトルの中のたった1ワードだったとしても考察対象になる。セレンディピティ